紀州鉱山軌道

昭和51年ごろ惣房にて(画像提供:熊野大辞典、田舎人様)

軌間610mmの鉱山鉄道
小口谷ー湯の口温泉間のみ観光の営業運転していました。
他の線路や坑道は、撤去、閉鎖されていましたが 
所々、点検の為に使用可能状態の坑道もありました
人気の入ら無い所は放置されて、廃虚として結構残っていました。
掲載した古い写真は鉱山資料館図書室のアルバムや展示写真を接写したものです。
(内容は個人的な想像などで掲示しており、事実と異なります)

路線図


板屋鉱山資料館にて

板屋始発駅にて

右上画像右奥、下画像奥に在りし日の青色の選鉱所が見れる

昭和51年ごろ板屋にて(画像提供:熊野大辞典、田舎人様)
収集資料より想像した当時の板屋配置図です
板屋の選鉱所跡A地点

1号坑口前より撮影(逆光)
現役時代は右画像
現役当時の選鉱所
参考資料:鉱山資料館
1号入口(閉鎖)B地点

現在の板屋駅跡
現役時代は右画像
現役当時の板屋駅

参考資料:鉱山資料館
現役当時の駅構内

現役時代の写真
資料:鉱山資料館
選鉱所から鉱山資料館の横を通って木製桁の水路があり 川まで延びていたようです
右画像は当時の木製桁水路の写真で 水が排水されていたようです

多分、選鉱所最上段より撮影したものでしょう(C地点)
右の町並が板屋の町並みだと思います
参考資料:鉱山資料館

小口谷駅にて
収集資料より想像した当時の小口谷配置図です
2号出口(閉鎖)A地点
板屋方面
小口谷駅B地点
3号方向より見る
小口谷駅構内
車庫
3号入口(湯の口へ)
C地点
在りし日の小口谷駅

参考資料:鉱山資料館
在りし日の8号坑道

参考資料:鉱山資料館
小口谷8号坑口
入口(閉鎖)D地点
小口谷8号坑口
内を見る

8号坑道は惣房本線と切り離されていて 線路は撤去され、整地されていました。
カート場の奥から坑口まで草に埋もれた軌間610mmが見れました
かつてここに大ヤードがあったようで 右の画像は在りし日の小口谷構内で右奥のデルタ線が小口谷駅です(F地点)

参考資料:鉱山資料館

湯の口温泉駅にて
収集資料より想像した当時の配置図です

5号出口(小口谷へ
A地点
湯の口温泉駅B地点
湯の口温泉駅C地点
湯の口温泉駅D地点
6号入口(惣房へ)
E地点
7号坑口(盛土の向こう)
F地点
7号坑口G地点
7号坑口内部
ニチユのバテロコ
6号入口(閉鎖
E地点

湯の口温泉駅は橋に上にあります
湯の口温泉の敷地内です
昔は、惣房本線と薬師小船方面
(左下の7号坑口)への大分岐ターミナルで
温泉施設は当時の線路のうえに建っています
線路は撤去され昔の面影は無く、
整地途中で放置されていました
右3枚は現役当時の画像です

参考資料:鉱山資料館
D地点

参考資料:鉱山資料館
H地点

参考資料:鉱山資料館
台風災害

惣房(そうぼう)本線の終点 惣房駅にて

当時の惣房駅の様子が良くわかる。なんと8両編成である

昭和51年ごろ惣房にて(画像提供:熊野大辞典、田舎人様)
収集資料より想像した当時の惣房配置図です
現在の6,8号口(閉鎖)
A地点
左画像の奥に
右画像の6号口(閉鎖)
A地点
s51年当時の6号口(閉山前で単線)
壁の向こうに8号口A地点

画像提供
熊野大辞典、田舎人様
対岸の坑口B地点
現役当時の惣房全体

参考資料:鉱山資料館
現役当時の8号坑口上から

参考資料:鉱山資料館
D地点
対岸への橋台

E地点
惣房駅跡は、多分道路の拡幅の時に整地されたに違いないと思います
当時は、6,8号出口から急右回りで90度転回して 駅、ヤードがあったようです
楊枝川を渡っていた橋も無く、橋台が残るのみです(上右下端画像)
下流の楊枝川集落からつり橋で(高所恐怖症には怖い)対岸にゆけました
そこは広場になっていて、枕木跡や建物の基礎跡が見れました
広場をぬけ 6,8号出口の対岸あたりに、三和鉱山時代?の坑口を発見(上右上画像)
当時、この対岸には三和鉱山時代?の選鉱所があったようです
上左したは当時の全体画像で 6、8号坑口方向の山の上から撮られたもので(C地点)
中央に選鉱所、川手前に惣房駅、左の建物下に坑口、手前下に対岸への2つの橋が掛かっているのがうかがえます。

上川(じょうせん)駅にて
収集資料より想像した当時の配置図です
B地点にて
駅跡は楊枝川沿の県道の
この林道をのぼる
突然原っぱが
枕木跡もあるA地点
原っぱの終わりに
隋道とレールB地点
廃トロッコの足回り発見
隋道の反対側
C地点
草木に埋もれる610mm
D地点
11号坑口出口
E地点
駅跡構内に残るレール
F地点
駅跡構内に残るレール
F地点
竪坑(閉鎖)
G地点
上川構内は、川をはさんで両側に展開、竪坑を中心に多数の坑口軌道がクモの巣のように敷設されていたようです 右画像3枚は当時のようすです 全体画像の左端あたりが竪坑、右端あたりが11号坑口、手前の橋の左下先が上の画像の原っぱへ続き、右端先が右端画像の上流の坑口へ続きます。 11号坑口と竪坑との間の全体画像

参考資料:鉱山資料館
H地点
竪坑あたりから
11号坑口へ

左端の建物が全体画像の左端に写ってます
参考資料:鉱山資料館
I地点
川上流の坑口まで延びる

参考資料:鉱山資料館
J地点

小船へ向かう薬師隋道出口にて
収集資料より想像した当時の配置図で
薬師出口

県道脇 A地点

B地点
薬師隋道(薬師炭鉱〜昭和初期まで)の出口を発見(左端画像)中央の逆さ三日月状の黒い隙間がそうです
岩土でふさがれていましたが、冷気が吹き出していました、手前のコンクリートは県道の側溝です、ここからずーと7号坑道まで続くはずですが?
軌道は敷設されていたのかどうかは、時代が古くわかりませんでした
紀和町石原産業鉱山事務所の方の話によると、当時は山越えの道が無かったそうで、この隋道は鉱員の通勤徒歩隋道であったようです
熊野川に出る左コーナーで2つの隋道を発見(右画像)この隋道をへて川沿いの小船集落に通勤道はいたったのではないでしょうか?

泰茅鉄道 鉄道見聞録目次